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2012年9月12日 (水)

父逝く 特別養護老人ホーム みかんの里にて

Epson004_2暗い話で申し訳ありませんが、長く病を患っていた父が亡くなりました。進行性核上麻痺、という難病で、パーキンソン病と似ているんですが、微妙に症状が違います。微妙に違うのでパーキンソンと同じ薬が効かない。症状としては、パーキンソンと同じように、神経系の麻痺、認知障害などを伴い、やがて全身の機能不全を起こしていく、というものです。

ところで、難病の難病たる最大の由縁は、患者数が圧倒的に少ない、ということなんです。症例が少ないから、治療法が確立されない。仮に治療法が見つかる可能性があったとしても、商業的に成立しないので、癌や心筋梗塞などのようにマンパワーとマネーをつぎ込んだ治療法の研究などできるはずもない。

症例が少ないので、どの程度生きるか、どう進行するかもよくわからないまま、告知を受けたのが10年前でした。その時点では、3年、もって5年、と言われていました。あれから10年。徐々に神経系は衰え、一人では歩くこともできなくなり、言葉もほとんど無くなり、食事も摂ることができなくなって胃ろうをすることになりました。

でも、尋ねていくと、はっきりしない言葉で子どもの頃の話に答えるのです。子どもの頃に泳いだ川でとった鰻や鮎の話、山を歩いて摂った山菜の話、そんな話をすると頷きながら手真似で泳いで見せたりするのです。ここにいる人は、私の父である。父であるのだけど、私の幼年の頃に圧倒的な輝きを持っていたその人格ではない。言わば燠火です。時折赤く輝き揺らめく炎の名残です。

10年前から、覚悟をしてきたつもりでした。徐々に介護が重くなるにつれて、母の負担も大きくなり、家族の負担も増えていき、危うい時期もありました。幸い、縁あってとてもいい施設でお世話を戴くことができたので、母も穏やかに毎日、父の世話をすることに生き甲斐を持ちつつ、最後まで思いを抱いていることができたようです。

私は、というと、不肖の息子であります。私は父の働く姿を見て、反発し、そして結局は父と同じ仕事をすることを選びました。

Epson006父の話を書こうとして、思うのは母のことです。昔は今と違って、月給は現金支給が当たり前でした。母は、支給日に給料袋を父から渡されると、それを押し頂くように受け取り、子どもたちを正座させ、「お父さんにありがとうと言いなさい。」と話したのです。子どもたちに、新しい靴下一足を買ってきて与えるときも、「お父さんにありがとう、と言ってきなさい」と話して聞かせました。

田舎暮らしをしていた我が家は、街の暮らしのように父が飲んで帰るなどということはありませんでした。その代わり、毎日のように晩酌をし、しばしば友人を招いて酒盛りをしていました。酒盛りの時に脚に出される落花生が欲しくて、客の前に言って、「食べるんだよ」と割って見せたりしました。父は、子供の浅知恵を笑ってみていました。

私が物心ついた頃の家の乗り物は、オートバイでした。東南アジアの国で今でも見られるように、後席に母を乗せ、ガソリンタンクにしがみつくように姉が乗り、母が私を背負いました。

父がちょうど今の私と同じくらいの年の頃、私は結婚しました。その頃の私は式も挙げることができないような貧乏な生活をしていましたし、自分で生活をすると決めていた私たちは、家に援助を求めることもしませんでした。籍だけを入れて生活をし始めて半年、ようやくとれた休みに、私たちは父のいる家に帰りました。

父は「おお、よう来たな」と嬉しそうに笑いました。夏が来る度に、私と奥さんは父と母の待つ和歌山の田舎町に帰りました。いつもいつも、「よう来たな」と待っていてくれたのです。ですが、それから10年もしないうちに、父は定年を待たずに退職をしました。そのころから病が少しずつ、父から仕事をする力を奪っていたのです。原因の分からない病気は、和歌山の小さな総合病院では手に負えず、父は自分で建てた家を売り払い、友や親族に別れを告げて、東京に出てきたのです。あちこちの脳神経科を回り、父の病名がわかるまで10年以上がかかったのです。

少しずつ、少しずつ、病は父からいろいろなものを奪っていきました。いろいろなことを忘れてしまいました。新しいことを覚えられなくなりました。大好きだった本を読む力も失いました。自分のいる場所も分からなくなりました。時折、家からいなくなることもありました。家族が、父が失われていくことに向かい合わなければいけない苦しい何年もがありました。あんなに父親を大切にしてきた母が、父親を叱る姿を見るのが苦しかった、そんな時もありました。それでも、父はただ穏やかな性格だけは残してくれましたした。

幸いなことに、というか、苦労の果てにそんな父を見てくれる施設が見つかり、そこにお世話になることができました。

だんだんと父は食事を自分でとることもできなくなり、母以外のものには何を話しているのかほとんどわからないようになっていきました。このぼんやりと存在する老人のどこに父がいるのか、ある人をある人たらしめているのは、なんであるのでしょう。それでもやはり、父は時折、生まれ育った故郷の川を語り、私の名を呼びます。

Epson005私の目の前で、林檎を手で割って見せた太い腕は細くなり、川でおぼれた私をすくい上げた力強い胸は細り、自らの仕事を熱く語ったその思いも消え、それでも父は、父であり続けました。

私は、この父の子であったことを誇りに思います。不肖の息子でありました。あなたと同じ職を選び、勤めを果たそうと努力をしてきたが、あなたのように誠実ではなかった。あなたのように努力を続けていなかった。それでも、私は、あなたの息子として、あなたを誇りに思い、あなたのように強く優しく生きたかった。

私の父の最期を看取ってくれた施設は、「みかんの里」という特別養護老人ホームです。若い人たちがたくさん働いています。こうした施設で働く人の給料は安い、と聞きます。だからベテランが育たず、生活をするために転職していくそうです。そうかもしれません。また、死に近づいていく老人たちの世話、汚物や悲鳴や、妄言、徘徊、若い人の心すり減る仕事であるかもしれません。

でも、父がいた施設は、病気の父を最後まで看取ってくれました。私たち家族は、この施設で救われました。父親もまた救われました。父が施設を去るとき、全ての手の空けられる職員の皆さんが、玄関まで父を見送りに来てくださいました。私たち家族ではできないことをやってくださるみなさんがいるということ、時には心折れそうになることもきっとあるでしょう。けれども、皆さんがやってくれていることは、たくさんの人々を救う仕事です。どうぞ誇りを持って、感謝を受けとってください。みなさんが、私たちの代わりに父を看取ってくださったこと、父を見送ってくださったことに本当に感謝しています。

「みかんの里」のみなさん、本当にありがとうございました。

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コメント

業務の為、最後にお見送りする事が叶わず、心残りでありました。 
お母様の献身的なお姿と、私共に温かい言葉をかけて下さるお心配りに、頭の下がる思いでした。
お父様の最後の日々に近くに居させていただきました事、感謝いたします。

みかんの里の、どちらさまでしょうか。いえいえ、応えていただく必要はございません。ただ、あのとき、私は、ひたすらに皆様に感謝する思いで胸がいっぱいになり、皆様に十分なお礼の気持ちを伝えることができませんでした。届くとは思いませんでしたが、これもまたネット社会の光の部分なのでしょう。

ほんとうに、ほんとうに皆様に感謝をただただ、感謝をしております。若い皆様が、十分に仕事を全うできるような、システム、収入であり、あるいは仕事に対する充実感であり、自分に対する誇りであり、そうしたものを、持ち続けていただけるよう、社会に対して働きかけていくことが、私たちの義務であると感じます。

世界は自由ではなく、公平でもなく、そういう意味では、父は恵まれておりました。苦しい時代を生き抜いた世代でありましたが、それでも末期を幸福に迎えさせていただきました。ただひたすらに感謝するばかりであります。

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